Insightインサイト

展覧会情報やインタビューなど、工芸に関するさまざま情報を発信しています。

展覧会情報

展覧会一覧へ

INTRODUCTION

萩焼には、新しいものを受け入れてくれる土壌がある。

深川三ノ瀬を訪れると、不思議と心が凪ぐ。ここ深川萩の産地で生まれ育ち、歴史ある窯元を受け継ぐ陶芸家・田原崇雄は、「萩焼」というものをどう受け止め、歩んでいこうとしているのだろうか。作品ににじむその人柄と作陶への思いを掘り下げる。

インタビュアー / 堤 杏子

  • 田原 崇雄さん 陶芸家

    山口県長門市在住の陶芸家。歴史ある萩焼深川窯の一つ、田原陶兵衛工房に生まれ育つ。大道土を使用した伝統的な質感を基調としつつ、自身の新たな釉薬表現を追求し、作陶に励んでいる。

    詳細プロフィールへ

『流白釉茶碗』
流れる釉の景色が美しい

――田原さんの代名詞ともなっている流白釉(りゅうはくゆう)は、どのようにして生まれたのでしょうか?

三ノ瀬には古い窯跡が3カ所あって、足元にはたくさん陶片が落ちています。そうした当時の破片は、今の萩焼のイメージと異なる風合いのものも多く、案外新しいなと感じるものもあります。その中の一つに流白釉に近い色合いのものもありました。

流白釉の元になった釉薬は、もともとは別の釉調を目指していろいろと釉薬の調合を試していたうちのひとつでした。ですが、当時はあまりうまくいかなかったので途中で諦めて、しばらくその釉薬は使わずに置いていたんです。そんな時、全く別のものを制作していた際に、部分的にその釉薬を掛けて焼いてみたらたまたま良い色合いが出て、いろいろな方が「ここがいいね」と言ってくださったんです。それを自分なりに突き詰めていったところ、以前見た古い陶片に釉調が似ていることに気づき、最終的に今の流白釉になりました。思わぬところで発見があり、うまく転がって現在に至っています。

――深川萩と田原陶兵衛工房の歴史について教えてください。

江戸時代の始まりとほぼ同じ時期に、当時の萩藩主が朝鮮の陶工であった李勺光と李敬の兄弟を招いて城下でやきものを作らせました。これが萩焼の始まりです。それから50年ほど後に、職人が大勢三ノ瀬に移住し、最終的に李勺光の孫が三ノ瀬に移ってきたことで完全に分窯となり、1657年に「三ノ瀬焼物所」ができました。そこから萩焼深川窯が始まったと言われています。

田原陶兵衛工房は李勺光の弟子の家系で、三ノ瀬に移ってきた赤川助左衛門を初代としています。江戸時代末期に武家だった田原家の名跡を継いで田原姓を名乗り、明治の時代になると名を陶兵衛と称し、作家として活動を始めました。この地区はみんなそうで、江戸期はずっと職人としてやきものを作り藩に納めていましたが、明治以降に藩の庇護がなくなったことでそれぞれが個人作家として活動するようになりました。

――萩焼の歴史ある窯元を継ぐということに対して、どのように向き合ってこられましたか?

自己表現がもともとそれほど得意じゃないので、昔は向いてないんじゃないかと思っていたんですが、美大に進学するというのを決めたあたりから、やっぱりちゃんと向き合っていこうと思いはじめました。でも、これからずっと陶芸の作品を作っていくのなら、今しかできないことをしたいという気持ちもありました。それで、大学時代は金属で彫刻を作ったりもしていました。陶芸に関係のないいろいろな素材に触れてみて、当時はそれがなにかに繋がるとは全然思っていなかったんですけど、今となっては回り道ではなかったと思っています。工具をモチーフにしたシリーズはそうした経験から生まれてきていますし、直線的だったり、建築的なものだったり、シャープな輪郭だったりという自分自身の造形に対する好みも、他の素材を通して見えてきました。

田原陶兵衛工房ギャラリー

先代(祖父・12代田原陶兵衛)は僕が小学生の時に亡くなっているので、あまりその仕事ぶりを見ているわけではありません。だから、よく見てきたのは父の仕事です。でも、同じことをしていては父のコピーになってしまうので、そこから離れていきたいという思いはあります。一方で、完成した作品を見ると、やっぱり父の影響を受けているなと思う部分もあります。いい意味でも悪い意味でも、父親の仕事というのは僕の基準になっていると思います。

父は唐津へ修行に行っていたんですけど、「自分の親以外の仕事をじっくり見るいい機会だった」と言っていました。僕は美濃へ修行に行きましたが、実際にここで仕事を始めてみて、美濃でのやり方がヒントになることがあったり、いろいろな価値観が逆転する場面もあったりして、他の産地や他の作家さんのところで仕事を見てくるというのはたしかに面白い経験だったと思います。

黙々と

日々の作陶を支える道具

――美濃では、豊場惺也さんに師事されていますね。影響を受けたことはありますか?

豊場先生は荒川豊藏の最後のお弟子さんで、瀬戸黒や志野などを作られています。萩とは全然やり方が違うし、価値観や表現方法も違います。先日岐阜県立現代陶芸美術館で開催されていた先生の個展を久しぶりに見たら、ああやっぱり良いなと思いました。僕はきっちり作ってしまうんですけど、先生の仕事って割とざっくりしてるんですよね。ちょっと崩した感じが綺麗にハマってるのがかっこいい。それが僕には難しくて、憧れではあるんですけどなかなかたどり着けません。先生は陶芸家ですが、木をいじるのも好きな方で、自分の作った器に木で蓋を作ったり、身近にある古木で茶杓を作って自分で使ったりされています。遊び心があって、陶芸家としては理想的なスタイルです。どうしても僕は、周りのいろいろなものに流されてしまうんですが、先生は全くそういうことがなくて、自分が興味のあるものをどんどん形にしていく。それはほんとに楽しそうだなと思います。

――海外の展覧会でのエピソードを教えてください。

2018年は日仏交流160周年のさまざまなイベントが開催された時期で、パリで伊藤若冲の展示が行なわれたり、歌舞伎が上演されたりしていました。ちょうどその頃、エッフェル塔の中でお茶会を開催して作品を展示させていただく機会があったんです。リヨンの市庁舎やグルノーブル大学で講演も行ないました。萩焼は400年の歴史があるわけですが、フランスではそれくらい古いものは珍しくありません。ただ古いからすごいというのではなく、萩焼の歴史を伝えながら、どのようにして使われてきたのかを伝える――つまり、お茶の文化と一緒に育ってきた、文化としてのやきものであることを伝えると、みなさんちゃんと受け入れてくれました。フランスの人たちは、文化に対して非常に興味を持っているんだなと感じましたね。

挽いたばかりの茶碗

――田原さんの考える萩焼の魅力とは何でしょうか?

一般的な萩焼のイメージというものがあると思うんですけど、意外に萩焼って、決まっているようで決まっていない。今いろいろな新しい萩焼が作られていますが、それが全て受け入れられているんですよね。そういう土壌があるのかなと思うんです。萩焼を作る人も、使う人も、みんな優しいなと思っています。新しいものを受け入れてくれる土壌があるというのはすごく良いことだと思います。

これは良い面も悪い面もあるんですけど、今、新しく外からやってきて萩焼を始める若手作家がいないんです。僕らはもともと家業で陶芸をやっていますが、そういう人しか作り手がいない。外から萩焼に魅力を感じて来てくれる人が作る萩焼は、やっぱり萩焼らしい作品になると思うんですよ。でも今の萩焼のイメージって、親世代がしっかりと作ってきているので、自分たちはそこからどう新しいものを作っていくかを考えるんですよね。だから若い世代が作るものは、萩焼ではあるけど萩焼らしくない。でもそれがまた、萩焼の新しい魅力になっていくといいなと思っています。

SHARE WITH

KOGEI STANDARD

編集部

KOGEI STANDARDの編集部。作り手、ギャラリスト、キュレーター、産地のコーディネーターなど、日本の現代工芸に関する幅広い情報網を持ち、日々、取材・編集・情報発信を行なっている。