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「輪島塗の復興に向けて」

2024年10月30 日、石川県能登の輪島を訪れた。輪島への訪問は昨年の9月以来であるが、この街の景色はそのときとは大きく変わってしまっている。東京から能登へと移動し、空港に降り立つと、空港の駐車場の至る所に隆起があることに気づく。市内へと向かう車の中からの眺めは想像以上の過酷さで、市内に近づくほどに、土砂崩れの跡や倒壊してしまった家屋など、自然の脅威を感じさせる景色が目に飛び込んでくる。

2024年元日、能登半島にて地震が発生した。マグニチュード7.6、最大震度7という未曾有の大地震であった。観光名所として知られた本町商店街(通称:朝市通り)付近にて大規模な火災が発生し、およそ5万平方メートルが焼失した。

輪島塗はこの地で400年近く続いている、歴史ある伝統工芸品だ。塗りだけでなく、木地作りや沈金、蒔絵など、さまざまな職人の分業体制によって、堅牢で美しい漆器が作られている。その漆器の作り手たちが、今回の地震によって大きな被害を受けた。本町商店街付近にも多数の工房や職人の自宅があり、輪島漆器商工業協同組合に加盟する103社のうち、17組合員の事業所が焼失し、20から30の事業所が全壊、そのほかの組合員の事業所の多くも半壊した。2024年9月には異例の豪雨があり、河川の氾濫や土砂崩れが多発。震災ののちに建設された仮設工房47室のうち7室が床上浸水するなど、さらなる被害に見舞われた。地震から復興に向けて歩き始めたばかりの出来事であり、この水害による人々の心理的なショックは計り知れない。

今回の訪問では、複数の作り手にお話を聞いた。電話やメールで連絡は取り合っていたものの、現地を訪れ、一人一人の目を見て聞くお話は、復興という言葉を口に出すことすら躊躇うほどに、被害の深刻さを感じさせられた。しかし同時に、それぞれの作り手からは、輪島の漆器への変わらぬ想いも感じられ、漆器の奥深い魅力に改めて気づかされる訪問ともなった。

震災後の輪島を訪れた柴田

輪島の作り手たちの「今」

輪島市内へと到着し、まずは輪島キリモトの副代表である桐本順子さんにお話を伺った。輪島キリモトは、朴木地屋(ほおきじや)としての歴史を持ちながら、現在では漆器づくりも自社で行ない、輪島の漆器ブランドとしてお椀やカトラリーから大型の家具まで、多様な製品を生み出している。震災後、輪島キリモトには、全国から多くの支援の声が届き、いち早くオンラインストアを復旧。2月には、建築家の坂茂氏の協力のもと仮設工房を設立し、今では日本各地の展示にも積極的に参加をしている。桐本家の自宅は地震により全壊してしまったが、2022年に作られたショールームの建物は無事だったため、現在はそこで寝泊まりをしながら、仮設工房を漆器の展示場として活用している。ご自身たちの生活すらもままならない中、工房で働く職人たちの声に耳を傾けながら、日々どうしていくべきかを考え続けている様子だ。順子さんは震災後、陶磁器やガラスの器が数多く割れてしまった中で、漆器が割れずに残ったことに強く心を打たれたという。欠けても修復ができ、布で磨けばすぐに輝きを取り戻してくれる。以前に友人から、疲れたときに漆器のお椀で温かいものを食べると元気が出るという言葉をもらったことも思い出し、自分たちの漆器はこんなにも頼もしいものだったのだと思い直したそうだ。順子さんがそんなお話をしながら、漆器のお椀を優しく手に持つ姿が、とても印象的であった。

午後になり、本町商店街付近へと移動した。数度訪れただけでは、以前の姿をすぐには思い出すことができないほどに、その場所は変わり果ててしまっていた。復興以前に、まずは焼失した家屋を撤去していかねばならず、その作業が完了するだけでもあと1、2年はかかるだろうと思う現実に、ただ言葉を失うだけであった。特に、私自身にとって初めての輪島塗との出会いであった塗師屋の藤八屋の本店が、電柱の看板だけが残され、更地となっていたことには、大きな喪失感を感じざるをえなかった。

本町商店街付近にある駐車場に車を停め、次に向かったのは木地屋として木工を手がける四十沢木材工芸だ。四十沢木材工芸は、震災直前にショールームをオープン。昨年9月に輪島を訪れた際には、完成間近の店内を拝見しており、その内装の美しさに輪島の新たな可能性を感じていた。幸い、このショールームは大きな被害はなく、オリジナルブランドの木工品の数々を手に取って感じることができる。四十沢さんご夫妻は、こんなときだからこそ、現地の人々や復興支援で訪れた人たちが、ほんのわずかな時間だけでも安らげる場所として、ショールームに立ち寄ってほしいという。隣接している木工工房は被害を受けてしまったが、今では震災前の6割ほどまでは生産量が回復しており、新たな商品作りにも意欲的だ。産地が復興に向かうためには、こうした活力は不可欠であり、これからの発信に注目していきたい。

上述の藤八屋は、塗師屋として長年、飲食店向けに堅牢な輪島塗を作り続けてきた。本町商店街の本店が全焼するなど大きな被害を受けたが、山本町の工房にて塗り作業を再開している。震災により、輪島の木地屋からの仕入れが困難になってきているとのことで、普段とは異なる他産地の木地を仕入れざるをえない状況に、分業制の漆器生産の難しさを感じた。

最後に、若き経営者が後継した田谷漆器店についても触れておきたい。田谷漆器店は、塗師屋でありながら、クラウドファンディングを活用した企画や、輪島塗を使ったレストラン「CRAFEAT」を金沢にオープンするなど、新たな視点で輪島塗の活性化に取り組んでいる。この震災直後に世代交代を行なったことは、大きな決断であったように思う。新代表の田谷昂大さんは、現在は金沢に拠点を移しながら、輪島の作り手との連携を続け、国内外に輪島塗の発信を行なう。海外からの観光客も多い金沢の地から輪島塗の魅力を発信していくことはとても貴重であり、今後の活動に期待がかかる。

街の復興への長い道のり

「復興」というのは、そのままの状態に戻るということではなく、その地に再び活気が戻ることを意味する。現状では、倒壊してしまった建物を解体し、除去していくだけで1、2年はかかるとされ、復興への道のりは長く険しい。以前の本町商店街には昔ながらの日本家屋が並ぶ美しい景観があったが、現在の消防法の基準に合わせれば、同じような建物をそのまま建て直すことはできない。区画を整備しなおした上で、新たな街として生まれ変わっていかねばならず、それぞれの家や店にとっては、難しい決断を迫られることもあるだろう。新たな住まいの環境によっては、今までのような生活を諦めざるをえない可能性もあり、復興に向けては、さまざまな課題がある。

街全体としては、漆器産業以外の漁業や観光についても考えていかねばならない。この地の経済の中心だった輪島港は、地震によって海底隆起が発生し、甚大な被害を受けた。地震後にこの港から魚が出荷されたのは、地震発生から半年以上も経過した2024年の10月末のことである。宿についても、多くの民宿や旅館が被災しており、10月末現在も一般客の宿泊は制限されている。こうした状況で観光という言葉を使うことは適切ではないのだろうが、それでもこの輪島という場所は、訪問者無くして復興はありえない。たとえ地震が発生しなかったとしても、人口減少が進んでおり、外からの訪問がなければ、街の明るさは失われていくばかりだ。少なくとも、被災地の状況を知り、何かこの地に役立つことができたらと思う人々は積極的に受け入れるべく、宿の状況や食事場所の情報を発信し続けていく必要があるだろう。

能登は、伝統産業だけでなく、食材も豊富で、美しい景観のある土地だ。しかし、交通の便は決して良いとは言えない。東京と能登は飛行機での移動が可能であるが、県庁所在地である金沢へは車で3時間ほどかかり、道も限られている。震災後に住まいを金沢に移し、そこから毎日輪島に通う人もいると聞いたが、その負担は大きいに違いない。街の復興に向けては、その地だけで行なえることは限られ、地域間での協力や連携が不可欠であり、被災地として街を閉じるのではなく、外部の人々と知恵を出し合っていくことが重要になる。

輪島塗を繋いでいく

輪島塗は分業制による工芸品であるが、職人の中には個人事業主も多い。こうして地域が被災してしまった今、塗師屋以外にも、木地師や蒔絵師、道具を作る職人など、どこか一つが途絶えてしまっても、生産には大きな影響が出てしまう。震災後、全国各地から伝統工芸を救いたいとして、多くの寄付が集まったが、全体の枠組みのためだけでなく、個人の作り手一人一人の活動にも、支援の手が届くことが望まれる。

輪島塗の魅力は、「布着せ」と呼ばれる木地の補強と、何層にも塗り重ねられた漆による強度にある。それにより、たとえ傷ついてしまっても、その後の修復ができ、何度も使うことができる。その堅牢さは、こうした過酷な状況であっても揺らぐことはなく、輪島キリモトは古い漆器を回収し、新たな塗りを重ねることによって再生する取り組みを開始した。こんな状況であるからこそ、輪島の漆器の原点に立ち戻り、これからの漆器へと進化させようとする姿は、日本海の荒波に向き合ってきた能登の人々の気質であるとも感じる。

現実を見つめれば、被災が続いた地で若い人が生活を続けていくことは困難を極め、この地を離れていく人も多いという。しかし、長い目で見れば、街に活気が戻り、新たな輪島の魅力を発信することができれば、必ず人々はこの地を訪れることになるだろう。それだけの魅力がこの土地にはあるはずで、そんな活気のある姿を取り戻すためにも、この土地で生まれた輪島塗をなんとか繋いでいってもらいたい。

土地と共に生きるということ

私たちは、日本の工芸の魅力は、多様な土地の風土から生まれたものであるとして、その魅力を国際的に発信し続けている。多くの外国人が日本文化や自然の豊かさに魅了され、インバウンド熱は高まるばかりだが、自然は美しいだけが自然ではない。人の手ではどうしようもないようなことが起こり、その自然の脅威は、時に人々の生活を大きく変えてしまう。それでも、自然から受けた恩恵を忘れず、その土地にしかない何かがあるからこそ、私たちは愛する土地に住まい続けるのだろう。

被災した景色は辛く悲しいものだったが、それでも自然の雄大さと、そこから生まれる堅牢な漆器の美しさは変わることはない。私はこの訪問を通じて、さらに輪島塗を好きになった。ここで見たもの、話したことのすべては、私は決して忘れることはないだろう。そしてまた、人々の明るさに溢れる能登を訪れたい。そう心に誓うのだった。

写真:須田卓馬

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柴田 裕介

編集長

(株)HULSの代表兼工芸メディア「KOGEI STANDARD」の編集長、コラムニスト。東京とシンガポールを拠点に活動を行う。日本工芸の国際展開を専門とし、クリエイティブ・ビジネス面の双方における企画・プロデュースを行っている。