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「無常観」

「無常」とは、物事が流転し永遠ではないということであり、「諸行無常」と言えば、ありとあらゆるものは無常であることを意味する。「無常観」とは、流れゆく物事に触れながら、人や万物の生について思う人生観的思想である。この無常とは仏教における教義の一つであるが、日本では学校教育の過程で、『平家物語』の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という一文を学び、日本の美的観念の一つとして広く知られている。

仏教から生まれた無常観だが、日本は四季があることで暮らしに常に変化があり、そこから独自の無常観を作りあげてきた。日本では、花は咲けば散るものであり、雪は積もれど溶けていくものである。日本の各地にある河川は、その流れが急であり、止まることのないものであることから、しばしば無常の例として用いられる。鎌倉時代の随筆『方丈記』は、その時代の無常観を映し出したものとして有名であり、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」という書き出しによって、人生の儚さが表現されている。

永遠と無常

西洋では無常とは異なり、「永遠」というものが重んじられてきた。神は永遠であり、それゆえ人間は永遠なる存在に憧れる。ミイラはその象徴とされ、人が永遠の命に憧れたことで作られたと言われている。一方、日本では地震や台風などの自然災害が多く、あらゆる物事は永遠ではないという意識があり、永遠性への憧れよりも、物事の儚さを思い、些細なことに意味を見出すことを追い求め続けてきた。

例えば京都では、美しい街並みや独自の文化を守るため、「変わらないために変わり続ける」という考え方が存在する。進化論のダーウィンが言ったともされるこの言葉だが、一見すると何年も変わらないように見える京都の景観や建築物も、常に細かな手入れや修復が行われており、その時々に最も美しくあるように日々更新され続けているというものだ。これは、物事が無常であると観ずるからこその姿勢であると言える。

人生は儚いもの

人は暮らしが豊かになると、どこまでも不自由なく人生を歩んでいけると考えがちであるが、そのようにうまくはいかないものだ。今も昔も同じように悲しい出来事は起こり、そのたびに道を塞がれたような気持ちになる。これだけ科学が進歩する中で、たった一つのウイルスによって、世界中の人々が混乱し、移動の制限さえも受けることを誰が想像できたであろうか。そうした疫病以外にも、気候変動による自然災害も年々増えているとされ、私たちの人生にはさまざまなことが起こり、その儚さを感じざるをえないときがある。

日本では、身近にある自然が時には脅威となることがあり、それにより多くの困難を経験してきた。豪華絢爛な暮らしをしていても、いつかは質素な生活をするときが訪れ、地位や名誉を追い求めても、それらは大自然の前では頼りない存在となる。人生は儚く無常であるとする無常観は、変化の大きな自然と向き合う上で、多くの日本人の心の支えとなっており、日々慎ましく、謙虚であろうとする姿勢へと繋がっている。

無常観と美意識

散りゆく桜は、無常の美として象徴的な存在であり、満開を過ぎた桜にも感情移入し美しさを感じるのは、日本人ならではと言われる。また、月の満ち欠けを美として捉えることも、日本の無常観の表れと見ることができる。

工芸というものは、天然素材を用いた手仕事であり、経年変化や個体差があるという点では、無常観とは切っても切り離すことができない。現代では、陶磁器のうつわは割れることに抵抗を感じる人もいるが、そもそも陶磁器は陶石や陶土からできているものであり、割れるものである。不変ではないからこそ、丁寧に手入れをしながら使っていくことで、愛情を深めていくものである。

変わらないことを願うよりも、物事は変わりゆくものとして、些細な変化の美しさを感じることが、無常観的な美意識と言える。変化というのは、良いときもあれば悪いときもある。雨の日も晴れの日も、川の流れのようにその時々の物事を観ずること。それは、日本だけでなく、世界の多くの人々にとって、この先の変化の激しい未来には必要な美学なのだ。

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柴田 裕介

編集長

(株)HULSの代表兼工芸メディア「KOGEI STANDARD」の編集長、コラムニスト。東京とシンガポールを拠点に活動を行う。日本工芸の国際展開を専門とし、クリエイティブ・ビジネス面の双方における企画・プロデュースを行っている。