『谷穹 抽象と静寂』展覧会レポート
展覧会・イベントレポート VOL.30
展覧会情報やインタビューなど、工芸に関するさまざま情報を発信しています。
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2024.12.12 – 12.25
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essence kyoto
本居宣長は、平安時代に紫式部によって書かれた長編物語である『源氏物語』について研究を行ない、その魅力はもののあはれにあるとした。その時代、文学は儒教の教えを映し出したものが良いとされていたが、宣長はそうした考えを否定し、もののあはれこそが日本文学の本質的な魅力であるとしたのである。さらに宣長はもののあはれについて、下記のように「もののあはれを知る」ことが重要であるとする。
物の哀れをしる事は、
物の心をしるよりいで、
物の心をしるは、
世の有さまをしり、
人の情に通ずるよりいづる也
宣長によれば、人は世を深く洞察し、人の情に触れることによってこそ、物の心を知り、もののあはれを知ることができるのだという。
日本人は一般的には個よりも集団を重んじているとされ、物事の些細な変化に敏感で、場の空気や人の気配を読み取ることに気を遣う。これは、人間関係において本音と建前を使い分けることでもあり、必ずしも良いことばかりではないが、日本人特有の振る舞い方であると言える。こうして、感情を表に出さない人が多いとされる日本では、恋愛においても、より些細な表情の変化や仕草の一つ一つを汲み取る必要があり、それらの奥底にある心に触れることなしには、恋がうまくは実らない。そのような恋愛観を持つ日本人だからこそ、情を知り、心を知ることが重要とするもののあはれという美的理念が生まれたのであろう。
もののあはれを語るには、日本の自然観というものは切り離すことができない。日本では誰しも春夏の夕暮れを見て、感傷的な気持ちになったり、秋冬の冷たい風を感じ、人恋しくなったりしたことがあるだろう。日本の自然観からすれば、自然は人の願うように移り変わるのではなく、移り変わる自然に合わせて人の心が馴染んでゆくものだ。もののあはれが、恋愛や人間関係における心の模様を表現する言葉でありながら、自然の美しさに触れたときの感動を表す言葉でもあるのは、こうした日本人ならではの自然観が背景にあるからである。
自然観とともに、もののあはれに密接に関連するのは無常観である。物事は流転し、留まることはないとする無常観は、もののあはれを知る上で、根底にある思想だと言っていいだろう。生きとし生ける全てのものは変わっていくと観ずるからこそ、その時々の景色を眺めることに意味が生じる。桜の花にもののあはれを思うのは、満開の桜の時が短く、儚げなことを知っているからであり、そうした学びによる感動こそが人の一生を豊かにしてくれるのである。
もののあはれという言葉は、「侘び寂び」や「生きがい」と同じように、海外でもよく知られている日本語の一つだ。これは、海外で日本の映画や小説、漫画などを評する際に、もののあはれという言葉が使われることがあるからであろう。なかでも、国際的に知名度の高い映画監督の小津安二郎は「もののあはれ」を映画のテーマとしてきたと公言しており、もののあはれという言葉が海外の一般の人々に広まっていくきっかけを作ったとも言える。日本の映画や小説などは、人の微かな心の揺れ具合を、自然の景色を交えながら長く静かに描写していくことがあるが、海外では、それこそが日本の美意識であると認識している人も多い。
これまで、この連載では、前編として日本の美意識や人生観について紹介をしてきたが、もののあはれはその前編の最後を飾る。どんな美意識や人生観も、深い理解には時間や経験が必要であろうが、なかでも、もののあはれの理解は難しい。難しいからこそ、さらに知りたくなるというものだ。
今では、日常の中では「もののあはれ」という言葉が使われることはないが、日本の心を描く物語であれば、映画や小説、漫画など、さまざまなものから感じとれるものである。「哀れ」という漢字が用いられると、感傷的な意味合いが強まるが、本来の意味である「ああ、はれ」という、心から感動する様子を思い浮かべれば、日本特有の美意識が目の前に広がってくるのではないだろうか。
日本には、表現において間や余白というものが多くあり、言葉を発さなくても間や余白で心情を表すことがある。そしてそれは、心の在処を探る面白さであり難しさでもある。他人を知ることで、自分を知る。自分を知ることで、他人を知る。こうした学びは、一生続いていく。だからこそ、もののあはれを知ることに終わりはなく、知ることは人生そのものなのだ。
参考:
田中康二『本居宣長 文学と思想の巨人』(中公新書)