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「砥部」

さまざまな陶壁や陶板、オブジェに出合えるやきものの町

愛媛県の県庁所在地・松山から南へ向かい、重信川を越えれば、そこは砥部町の玄関口。砥部焼の陶板で作られたタワーが出迎えてくれる。県中央に位置するこの町は、「清流とほたる 砥部焼とみかんの町」と掲げるとおり、美しい自然に恵まれた、窯業や農業が盛んな町だ。南部へ向かうにつれ標高が高くなる地形は、傾斜地に築かれる登窯に適している。昔から陶磁器の原料や赤松の薪が豊富に採れたことに加え、砥部川とその支流が陶石を砕く水車の動力源となり、やきものの町として発展するのに恵まれた条件が備わっていた。南北に流れる砥部川沿いに形成される集落では現在100軒ほどの窯元が窯業を営んでいる。

生まれ変わった砥石くず

奈良時代より、砥部は砥石の産地として知られていた。正倉院文書の記述によれば、東大寺の観世菩薩像造立の際、砥石山から切り出される「伊予砥(いよと)」と呼ばれる砥石が用いられたとされ、これが「砥部」の地名の由来になったともいわれている。

今日の砥部焼の起源は江戸時代、藩命により杉野丈助が砥石くずを用いた磁器の生産に挑戦したことに始まる。当時、砥石の切り出しの際に出てしまう砥石くずはいわゆる産業廃棄物で、処理にもコストがかかる厄介な存在であった。そのような状況の中、杉野は数々の試行錯誤を経て、砥石くずを原料とした手描きの染付磁器を作り出すことに成功した。現在でいうリサイクルである。そして後年、鉄分の少ない川登陶石が発見されたことで品質は向上し、色絵や淡黄磁の名品も誕生する。明治期には型絵染付の茶碗が人気を博し、「伊予ボウル」の名で世界に知られるほど、海外への輸出が拡大した。

民藝運動と砥部の今

やや厚手の形に素朴な手描きの染付。現代に受け継がれる砥部焼の基本的な特徴である。これは民藝運動の旗手であった柳宗悦、バーナード・リーチ、濱田庄司らが砥部を訪れたことが大きく影響している。折しも砥部では第二次大戦を経て多くの窯元が廃業を余儀なくされ、その数はごくわずかとなっていた。厳しい状況下、彼らは砥部の陶工たちに砥部焼の原点である手仕事の価値を説き、再興へと歩みを進める道標を示した。こうした経緯から、砥部では現在も手作りの器に誇りを持って作陶している作り手が多く、伝統的な砥部焼の技法は今も受け継がれている。

柳らの来訪から70年余り。人々の生活も社会も、当時から大きく様変わりした。それでも砥部焼が愛され続ける理由のひとつは、何よりも使い勝手が良く、日常生活に馴染むからであろう。暮らしに寄り添い、暮らしに育まれてきたからこそ、今の暮らしを見つめる目は研ぎ澄まされ、現在では伝統を軸としながらも個性豊かな作品が次々と生まれている。砥部を訪れれば、暮らしと共にある砥部焼の本質的な魅力に自ずと気づかされることだろう。

 

 

参考:

・砥部町 公式ウェブサイト
https://www.town.tobe.ehime.jp/

・砥部焼協同組合 公式ウェブサイト
https://www.tobeyaki.org/

・愛媛県生涯学習センター データベース『えひめの記憶』
https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/search

・砥部町監修、えひめリビング新聞社編『陶街道五十三次しらべ帖 砥部の里めぐり』(えひめリビング新聞社)

・梅山古陶資料館

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KOGEI STANDARD

編集部

KOGEI STANDARDの編集部。作り手、ギャラリスト、キュレーター、産地のコーディネーターなど、日本の現代工芸に関する幅広い情報網を持ち、日々、取材・編集・情報発信を行なっている。